対人恐怖症をコントロールできた



あまりにも簡単だったため、怒りにも、喜びにも似た、震えがとまらない。ただこの日のメンタル状態が良かっただけかもしれないが・・・
実行したのは僕がもっとも効果のないと思っていた「思考法」だった。
今までの15年間はなんだったのか・・・・


今までを振り返ってみよう。思考法だけじゃ変わらないと思い、行動を伴う「認知行動」「プラス行動」治療法で、思考を潜在意識レベルに刷り込み強化するやり方で僕は一度克服した。

具体 的には、良い人になるのをやめて、文句あるかコラ!と、自分に非があっても自分を尊重する生き方をする、

そして実際に体を鍛えて、力で勝てるよう自分に自 信をつける。
相手に怒鳴られても、怒鳴り返せたのは、殴り合いで勝てる、という心の余裕があったからだ。
なりたい自分のセルフイメージももつ。
なりたい自 分になるための経験構築は惜しまない。
道端ですれ違った若者には片っ端からガンをつけて、口喧嘩に発展することもあっても一歩も引かず、そうやっていくう ちに自分のプライドが高くなっていくのを実感した。
立ち向かった相手が怖ければ怖いほど、それを乗り越えたときの自己評価、自尊心の上がり方は急激で、そ れ以下の「逃げ」の行動をとることに強烈な抵抗を感じるようになっていった。
結果、人に馬鹿にされたときに「退く」ことがなくなり、噛み付くようになって いった。
自分はこのような扱いを受ける人間じゃない!という自己認識が「人に立ち向かった経験」と共に潜在意識に存在したからだ。
その結果、人から舐めら れることもなくなった。そして対人恐怖症を克服したのだ。
その頃のプライドは凄く高く、「ナヨナヨして舐められるくらいなら、強気に出て嫌われたほうがマ シだ」と思えるようにさえなっていた。

そしてそのとき気づいた。
対人恐怖症を増徴させていたのは、「嫌われてはいけない」「仲良くしよう」という、良い人でいようとする心の働きが原因だったのだ、と。

それから六年・・・・ とげとげしい生き方に気疲れしてしまい、元のおおらかな性格に戻ってしまった結果、対人恐怖症を再発するという失態を犯してしまった。
昔のように、とげとげしく生きるのは非常に難しくなっていた。
学生の頃は「唯我独尊」精神でもよかった。今は違う。

社会に出たら、人に雇われる身分になるのだ。
上手く適応しようとすれば、この「唯我独尊」精神は邪魔に なる。
実際、最初の会社では嫌われるようなことばかりしてしまい、周囲が敵だらけになったあげく、クビになってしまった。
それでも自分に自信をもっていた ため落ち込むことは無かったが、時間の経過とともに対人恐怖症が再発するなかで、思い出すとトラウマと思えるようなレベルの孤立の仕方だったと気づき、自己嫌悪に陥ってしまった。

空白の六年間は、最初の数年は気楽に遊びほうけていたが、対人恐怖がきつくなりだした後半4年間はひきこもりが ちになり、外に出るのも怖くなっていた

何より、中途半端にプライドが高いまま恐怖症が再発してしまったため、無意識に人に嫌われるようなことをしている ことにすら気づかず、俺はどこへいっても嫌われる、というパニックに近い状況になっていた。

今思えば、昔のように笑うこともなく、人と感情共有することも なく、クールな振る舞いばかりしてた。
前はそれでよかった。
噛み付いてきた敵に対して怒りをぶつけることができたから。クールだけど自己主張はできてた。

今はただ何を考えてるのか分からない、感情を素直に表さない、不気味な振る舞いをするだけの子になっていた。
その振る舞いが他人の不安を煽り、よからぬこ とを考えているのだろう、とか変な予測をさせて、嫌われたのだろう。


そんな状態で六年ぶりに社会復帰したものの、人間関係上手くいくはずなく、気づいたら四方八方敵だらけ、という悲惨な状態になっていた。
なにより引きこもりがちだったため、社会不安はMAX。人見知りもMAX。感情を表に出す余裕もない。


とある人と出会うまでは。

その人は年齢50代の年配の方で、俺と同じ時期に入社した方だった。 そんなこともあり親近感をもってくれたのか、一緒に帰ることもしばしばあった。
俺は一緒に帰ることになるたびに、身構えてしまい、次の日は見つからないように帰ろうと、それだけしか考えられなかった。
しかし、回数を重ねていくたびに、帰り際にアルコール飲んで仕事の不満を話し合ったり、そういう付き合いもする(させられる)ようになった。
とてもおおらかな人で、僕の人見知りも受け入れてくれた。
僕のつまらない話でもよく笑う。
そんな彼に僕はじょじょに信頼をよせていった。
そして僕が対人恐怖症だったことをうちあけると、「全然そんな風に見えないよ」「気にするほどでもないさ」とあっさりと流してしまった。
しかし、それ以降、僕の人見知りや、人と会話することを避ける性格を理解し、接してくれる良き理解者となった。

自分の弱みを打ち明けるのは勇気がいるが、打ち明ければ、心の負担がぐっと軽くなる。
そして僕は人との会話の中で「笑う」という基本的なことをその人を見て学んだ。
口下手で論理的な返しができなくても、ただシンプルに「笑う」だけで、話を聞いてもらえてる安心感がある。
それでもまだ人を選んでしまうが、笑う回数が増えていくたびに、人脈の輪は広がっていった。


もうひとりの人物との出会い。 それは俺より年下のまだ10代のベトナム人青年。日本語ペラペラなのだが、さすがコミュニケーション能力は高かった。
彼からもコミュニケーション下手な俺はいろんなことを学んだ。
話 すことが無くても、一日の中で顔を合わせれば、「元気?」「大丈夫?」と毎日声をかけてくれた。
俺は毎日同じことを言ってたら相手にしらけられるだろうと 勝手に思い、毎日かける言葉を考えたが、徐々に思いつかなくなり、顔を合わせても声をかけなくなることが多かった。
しかし彼は毎日「元気?」「大丈夫?」 「昨日何した?」「ちゃんと寝た?」と、定石のようにワンパターンな声かけをしてくるのに、俺は嫌な感じがしないどころか、可愛くも思え、親しみを覚えて いった。
スキンシップもよくする。
すれちがうときに何も喋ることがないときは、両手を広げて行く手をさえぎるふりをしたり、後ろから突然わっと驚かせてき たり、あるいはチ●コをタッチして「大きいなあw」と下ネタを言ってきたりwさすがにそれは真似できなかったがw ま
た彼は冗談をいうのが好きみたいで、 それも特別面白くはない。
寒くてすべることもあったが、愛嬌を感じる。
ただオーバーに変なことをいうだけだ。
俺が飲み会にもってくるお金を「4000円」 と答えたときに「4百万でいいよ」ととてもつまらないことを言うw 
俺が鹿児島からやってきたことを言うと、「歩きで?!」と言ったり。
しかしつまらなく ても砕けたトークは場を和ませる力があり、愛想笑いでも場が和やかになる。


【「情報交換」と「感情共有」の会話】

そんな二人を通 じて、徐々に当初は付き合いの薄かった職場のほかの人ともつながりができていった。
そして苦手だった「会話」のテクニックを会得した。
会話とは情報交換で あり、最初は「何がすきか」「休日はなにをしてるのか」と相手がどんな人か探りを入れる会話をし、その返答をよく覚えておく。
それが次回の会話のネタと繋 がる。
ネタをストックする行為が会話の基本だ。
次回はそのネタに関する情報を交換する会話をすればいい。
この2パターンがトークの軸だと知った。

た とえば、Aさんが「ゲームがすき」だと知ったら、次回からは会話に困ったら、それに関連したネタを提供できるように情報を収集しておく。
知識が豊富な人な らそんなことをしなくても良いかもしれない。
ある日僕が「軍事や歴史がすき」だと、とある同僚に話したら、次の日に、歴史上の人物が活躍する面白いアニメ を同僚に薦められた。
当然食いつきは良い。もっと知ろうと質問をする。
そうやって会話が弾んでいくのだ。
常に会話のネタをストックしておく、これが会話の テクニックだ。
ネタ切れになったら、いくら冗舌な人でも言葉に詰まる。逆にネタが豊富なら、ひとつのネタで途切れても、別のネタを提供できる。
だから会話 が弾むのだ。トークとは日頃の「ネタのストック量」にかかってる、といっていい。


またこれとは真逆のやり方もある。つまり相手の興味を探 るのではなく、自分の興味のあること、自分に関連したことを話すのだ。
これで次回から相手がそのネタを中心に話をしてきやすくなる。
相手に自分が食いつき やすいネタを教えて、相手に会話のネタをストックさせるのだ。
「俺ゲーム好きなんだ」とか「マラソンしてるんだ」とか自分がどういう人間か、個性を分から せることにも繋がる。
そうやって相互理解は深まっていく。
また、人の噂話、地域の情報、天気の話、など身近なことに関する話題は万能だ。
近所に安い店があれば教えてやれるし、逆に「安い店はないですか?」と聞くこともできる。 さっきもいったように会話とは情報交換だ。便利で実用的な情報ほど聞き応えがある。


とまあ、わずか半年でいろんなことを学んでいったのだが、一番学んだのは ワンパターンな会話でもいい、ということだ。
仲の良い同僚と出勤後にする会話はいつもワンパターンだ。
「今日は清掃があるのか」そればかり。
もはや分かりきっているが「今日は清掃ですね」と返答する。
何も喋らないよりはこれでいいのだ。


一方、仲の良い同僚とコミュニケーションを測れるようにはなったものの、対人恐怖という根本的な不安との葛藤は消えず、不安に陥れば、目が死んだ魚のようになり、それはすぐ相手に伝わってしまう。
笑顔もぎこちなくなり、表情を隠すのに精一杯で、会話にも集中できなくなる。


これらの不安を煽っているのは何か、と考えた結果、それは「嫌われてはいけない」という強迫観念だった。
これは以前対人恐怖症を克服したときにも、ひとつの克服法として会得していた悟りでもあった。


そんなときにこんなコラムに出会った。
「嫌いな人への対処法」http://www.h5.dion.ne.jp/~takata/11/9.html


良い人でなくてもいい、嫌いな人は嫌い、という自分の素直な感情を認め、 そして相手にも自分を嫌う権利があることを認める、というもの。

要するに相手と自分は常に対等で、相手を尊重するように自分も尊重するというもの。
自分の感情を肯定し、相手の感情も肯定し、受け入れることで心の鎖をほどくというもの。
僕はこのコラムを見たとき、狭い牢獄から開放されたように心が軽く、自由になった気がした。
ネガティブな感情を肯定して認めるということができていなかったのも実感した。
心の中で「嫌われてはいけない」と思ったり、気が合わなくても「俺が悪い」と自己否定したり、そういうことばかり続けていたから、常に受身になり、恐怖で身構えていたのだ。


俺はこの思考法をさらに応用して「大嫌いだ!」とシンプルな言葉にしてみた。 対人恐怖は誰に対しても程度の差はあれど発症してしまう。
だったら接する人全てに最初から「俺こいつ嫌いだ!」と宣言して接する。
不安が襲ってきたら「こいつ嫌いだ」、不安が襲ってくるたびにそう思考する。

するとどうだろう。嫌われたくない、と思って視線も上げられなかったのに、「嫌いだ」と思った途端、視線を上げることができるようになった。

嫌いな奴にはどう思われてもいい、という開放的な気持ちに慣れるのだ。
ちょっと性格がゆがんでるやつみたいになるけど。 本当に嫌いでなくても、嫌いだ!と思うことで、嫌われたときの不安が消える。
良い意味で図々しくなれるのだ。

結果、仲良くなれてしまうのだ。 だが決して仲良くなろうとは考えてはいけない。
そうすればまた自分を引っ込めてしまう。 嫌いだ!と思うことで、図々しくなろう


感情を隠そうとせず、伝わってもいいや、くらいの軽い気持ちで「嫌いだ」と思うこと。
そうすると振る舞いも変わってきます。嫌われてもいい振る舞いができるようになると、案外人間関係も潤滑になるものだ。



ABOUTこの記事をかいた人

1人旅をこよなく愛する暇人。自然と動物が好き。知識なしで会社経営を始めて現在泥臭く奮闘中。投資経験ゼロから半年で10万円を3200万円に!元ひきこもり時代を経て現在格闘家。なんでもやってみて案外なんとかなってる人。